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  • 投稿日時:2024/09/01
    緑茶は、生薬としては「清熱薬」です。熱を冷ます。ツムラのエキスでは、川芎茶調散(せんきゅうちゃちょうさん)に入っています。


    川芎茶調散は軽い風邪で微熱気味の時に使うのだそうですが、実は私は一回も処方したことがありません。軽い風邪気味なら、桂枝湯も香蘇散もあります。少し咳が出るなら参蘇飲でも良いでしょう。どうしてもこの人は川芎茶調散だという患者は、あまりいないのです。


    清熱薬として使うお茶は,必ず緑茶です。ウーロン茶でも紅茶でもありません。


    ところがついさっき、私は用事で街に出て、この残暑などとは到底呼べない猛暑の中、ちょっと商店街にあったお茶屋に入って茶を一杯所望しました。


    冷たい緑茶が一杯供され、それを飲んだ途端、私は汗と暑苦しさがスッと退くのを覚えたのです。なるほど、これが緑茶の清熱か、と納得しました。


    緑茶が清熱薬だというのは、おそらくこういう経験から出たのでしょう。これは冷たいウーロン茶でも紅茶でも経験出来ません。冷たい水でも無い。やはり、冷たい緑茶なのです。しかも不思議なことに、ペットボトルの緑茶を冷蔵庫で冷やしても、こんな「すっと汗が引く」感覚は起きません。無論ペットボトルの緑茶だって水分は補えますから、当院にはペットボトルのお茶、ウーロン茶、お水を常備しており、待ち時間が一時間を超えた人は必ずこうしたものを配るようにしています。しかしこの、淹れ立ての緑茶を冷やしたものを一杯、と言うのは、格別です。


    つまり緑茶の清熱作用というのは、実際に発熱しているとき解熱剤になる、と言うことではないようです。コロナで38℃の熱がある人に冷たい緑茶を飲ませたって、一瞬ほっとするかも知れませんが熱は下がりません。しかし、こう言うめちゃくちゃ暑い日にそっと冷たい緑茶を一杯出されると、それをゴクリと飲んだ瞬間、すっと汗が引くのです。


    今日は、緑茶という生薬の薬効を身をもって体感しました。
  • 投稿日時:2024/08/31
    「通院精神指導をした人は誰だったか」


    昨日、20代半ばの女性が心療内科を初診しました。その人の話を聞いているうちに、私は「そうか、この人の相手は、私より事務長がいい」と思いついたのです。それで、窓口にいた事務長に「おーい、ちょっと来てくれ」と呼びました。



    事務長というのは、事務長です。事務屋であって、患者の相手をする役目ではありません。しかし私はその患者さんの話を聞いているうちに、この人の相手は事務長がぴったりだ、と直感したのです。


    その人は大卒で、最初勤めたところが無茶苦茶なところだったためお決まりの鬱を発症してしまいました。マジでしっちゃかめっちゃかな会社だったようです。しばらく休職して病が癒えた後、とある会社に再就職しました。今度はしっちゃかめっちゃかではありません。大卒の人が勤めるのにふさわしい大手です。


    しかしその人はその間数年ブランクがあったため、事実上新卒なのです。これまで全く自分が知らない業界に入って、0から仕事をスタートした。周りの人たちは親切で、「分からないことがあったら何でも訊いて」と言ってくれるのですが、どうもその人、最初の会社のトラウマが残っていたようで、次第に自分があれも出来ない、これも出来ないと自分を責め始め、遂に「廻りは如何にも親切そうに言ってくれるけれども、本音では自分を蔑んでいるんじゃないか、こんなことも分からないのかと思っているんじゃないか」という鬱の連鎖に陥ってしまったというのです。


    そこまで聞いて、あ、この話は事務長だ、と直感したのです。


    当院事務長は、もうご存じの方もいるでしょうが、私の相方、つまり人生のパートナーです。私が勤務医として高給を貰っていた間、彼は一度も医療に関わったことはありません。しかし去年3月、私が突然あゆみ野クリニックの経営をやらなければならなくなったとき、経理を始めとする諸般の事務をやってくれる人を雇う金がありませんでした。窓口の人と、クリニックの経理その他をやる人は違います。経理は、どうしたって本当に信用出来る人間にしかやらせられません。でもそういう人は、かなり高給を出さなければお願い出来ないわけです。無論私自身複雑な保険請求の仕組みは分かっていませんでしたからコンサルタントをお願いし、また会計や税務は会計士、税理士にお願いしましたが、会計士に日々のお金の出し入れから全部やって下さいとなれば、それはものすごい料金になってしまいます。どうしても、日々の金の出し入れは自前でやり、領収書等々必要な書類は整理して、その結果を会計士に出して会計士が収支の一覧表を作り、「今月も売り上げが足りません」とやるわけです。ところが、そういう日々の金の出入りをやりつつよろず雑務をやってくれる人を頼むお金がない。そこまで自分でやるとなれば、私が潰れてしまう。それで私は、相方にやって貰うことにしたのです。


    しかし彼はこれまで、医療という分野には一度も関わったことがありません。最初に彼が訊いてきたのが、1点って何?でした。これには、私が愕然としました。私は医者ですから、保険医療の込み入った計算は分かりません。しかし医療の世界では、1点は10円のことだ、と言うのは常識として知っていました。皆さん医療機関や薬局から貰う領収書や明細書を見てください。すると、金額で書いてある部分と点数で書いてある部分があります。1点というのは10円のことです。これは、医療、福祉、介護業界では1+1=2と同じぐらいの常識なのです。だから、相方事務長に「1点って、何?」と訊かれたとき、私が呆然と立ちすくんだその理由が、逆に彼には分からなかったという話を、後で本人から聞かされました。要するに、赤信号と青信号の違いを知らない人を運転手にしたと同じだったのです。


    相方事務長は去年の7月から当院の専属事務長になりました。丁度1年と1か月が過ぎたわけです。その間、なんど家に帰ると私が彼に怒鳴り、頭ごなしに否定し、わめき散らしたことか。


    何しろ、他の従業員には一切私は自分の本当の感情はさらけ出せないわけです。最初の3か月なんか、まさに毎日胃がキリキリ痛んで、私は比喩とか例えではなく本当に、ものが喉を通りませんでした。3か月で20キロ痩せました。銀行の口座の残高は音を立てて消えていきますが、患者は増えない。当然、収入もない。しかし出るものはどんどん出ていく。


    人生で、一番真剣に自殺を考えた3ヶ月間でした。


    そういう時、家でもクリニックでも私に付き合わされたのが相方事務長と言うわけです。しかも彼は、1点が10円だという事すら知らなかった。


    まあこういうケースというのは、普通はどちらか、あるいは両方が潰れて終わるんです。最初からめちゃくちゃだったんだもの。


    私が一番「もうこれは無理だ」と思ったのは、二人で疲れ果てて仙台の家に戻ったとき、彼が「今夜はこれだよ」と言って出したトウモロコシ一本を見たときでした。一人一本じゃないのです。二人で一本。相方は心底疲れ果てており、冷蔵庫に置いてあったトウモロコシ一本をチンして出すのがやっとだったのです。お腹空いてるならカップラーメンあるから、と言われましたが、私もそのカップラーメンを喰う気力すらありませんでした。


    しかし最近私は、どうも今、私が知らないところで相方事務長がクリニックを動かし始めたことに気がつきました。大抵のことは、彼と看護リーダーが相談して動かしており、「これは」ということだけ私の判断を仰ぐようになっているようです。


    それで、「鬱から立ち直って全く知らない業界に入ったら右も左も分からなくて混乱してしまった」というその患者さんに、私は相方事務長を呼び、彼に患者さんの話を聞かせました。そうしたら、彼は驚くべきことを言い出しました。


    うん、私も、急にここの事務長をやれと言われて、何にも分かりませんでした。何もかも分からず、とても困ったのです。


    まさに私が毎日彼を罵詈罵倒していた頃の彼の気持ちを語り始めたのです。


    それで、どうしようかと悩んだあげく、ノートを付けることにしたんです、と彼が言うのです。


    たしかにこれまで、私は二人して疲れ果てて仙台の自宅に戻ってくると、彼が寝る前にいつもノートに何かを書いていることに気がついていました。時々「お前、何を書いているんだい?」と訊きましたが、彼は答えません。まあ、日記みたいなものだろうかと、私もいつしか尋ねなくなりました。ところが昨日、その患者さんを前に彼はこう言ったのです。


    毎日ノートに、「今日自分が出来たこと」を書くようにしたんです、と。


    出来ないこと、失敗したことを挙げだしたらきりが無いから、今日初めて自分が出来たことを、どんなに些細なことでも、ノートに書くようにしたんです、と言うのです。


    私は脇でそれを聞いていて、初めて「そうか、そうだったのか」と心底なんとも言えない気持ちがこみ上げてきました。毎日毎日家に帰ると私が彼を罵詈罵倒していた頃から、彼は毎日黙って「その日初めてやれたこと」を書いていたのです。


    これには、その患者さんも驚愕したようです。それまでうつむいて、相手の目をそらしていた彼女が初めて相方の顔を真っ直ぐに見て、話に聞き入りました。相方は淡々と話し続けます。


    自分は医療なんか何にも知らなかったから、毎日失敗だらけだったんです。毎日毎日、訳が分かりませんでした。でもそればかり考えていたら、潰れてしまいます。私はこれまで随分いろんな仕事をしてきたので、「自分が仕事について何も分からないときはどうしたら良いか」は知ってたんです。それで、私は毎日仕事が終わると、その日自分が何を初めて出来たかを書いて、一ヶ月ぐらい毎にそれを見返したんです。仕事を始めて一年ぐらいは、誰だって何も分かりませんよ。ええ、私は随分色々な仕事をやりましたが、最初の一年ってのは、誰も何も分からないです。だから最初の一年は,何も分からないのが当たり前ですから、それを気にしない方が良いですよ。


    もしこれが私の言葉だったら、その患者さんにこれほどまでには突き刺さらなかっただろうと思います。彼が語ったことは平凡ですが、まさに彼の人生の苦労が語った言葉でした。だからこそ、その言葉は真っ正面から患者さんの心に達したのです。


    結局その患者さんは、かなり表情が明るくなり、何もお薬は出しませんでした。またいらっしゃい、と言って帰しました。相談料、正式には「通院精神指導料初診6千円」は今回は私ではなく、相方事務長が貰うべき料金だったようです。


     
  • 投稿日時:2024/08/22
    今日発熱外来に来た患者さん、コロナは陰性。朝から下痢というので昨日の食事を尋ねたら、朝おにぎり一個、昼コンビニでおにぎり一個、夜はカップラーメン。


    「毎日そんな食事なんですか」
    「いえ、もう疲れ切って食べる元気もなくて」
    「なんのお仕事ですか?」
    「訪問看護師です」。


    連日この猛暑の中訪問看護をやって、遂に精根尽き果てた、と言うことだった。


    とりあえずクリニックに入れて点滴したが、点滴一本ぐらいでは彼女は回復しなかった。本当に、本当に限界だったんだと思う。熱中症、脱水症で三日間休業という診断書を出し、水分は取れるようだから家で休んでも良いし、点滴した方が良いと思うなら明日も明後日も点滴するから、と言って帰した。処方はしばらく迷った末、白虎加人参湯ではなく真武湯にした。精も根も尽き果てた下痢だから真武湯。
  • 投稿日時:2024/08/19
    この夏、コロナが再び大流行しています。ここ数年、私は漢方でコロナを治療してきました。ところが去年の夏頃から「どうもこのコロナ患者は、日本漢方では上手く行かない」と感じる患者が増え、今年の夏の流行ではそう言う「日本漢方では治療が難しいコロナ患者」が大多数を占めています。それは何故かという理由をご説明します。


    漢方では、発熱を伴う感染症を大きく二種類に分けます。傷寒(しょうかん)と温病(うんびょう)。最大の違いは、最初の発熱に伴って悪寒(さむけ)すれば傷寒、悪熱(ほてりを感じる)すれば温病。


    発熱と同時に寒気を感じる傷寒は古くから認識されて、有名な傷寒論という本に病態と治療法がきちんと纏められています。しかしこの夏のコロナのように、高熱が出ると同時に患者が暑い暑いと熱感を訴えるのは傷寒ではなく、温病です。


    温病(うんびょう、ウェンビン)という概念はかなり古くからあったのですが、本格的に研究が進んだのは相当遅く、清代でした。清代に温病の病態、病気の進行の解析、治療法などが確立しました。その知識は、江戸時代後期から末期の日本にはほぼリアルタイムで伝わっていたのです。


    しかし、日本が明治維新の時伝統医学を捨ててしまい、事実上我が国で伝統医学が途絶えた後、伝統医学の復興を試みた人々が、何故か傷寒論に非常に偏って重きを置く人々でした。彼らは古代の傷寒論こそが正しくて、中国の後世の医学は取るに足らないと看做したのです。それで、江戸末期までは温病学(うんびょうがく)も日本に伝わっていたのに、その知識は復活しませんでした。昭和の頃に漢方エキスが保険収載された頃もそうでしたから、今日本の保険適応漢方エキスには温病の治療薬がほとんど入っていません。しかも、今でも日本の漢方医学を代表すると自認する日本東洋医学会も、未だに傷寒論に偏った考えを持つ人が中心なのです。それで、今のコロナのように真夏に高熱が出て、患者は暑い暑いと苦しむ、まさに温病という場合に日本漢方のエキス処方では対応が極めて難しい。


    本来なら、中国伝統医学が現代中医学に進歩し、多くの臨床的エビデンスが蓄積されるようになった今、そうした新しい処方(中成薬)もきちんと審査を経て我が国でも保険収載すべきだと私は考えています。しかし一度そういうことに手を付けると、昔エビデンスがないまま(と言っても昭和の頃の臨床研究なんか、手法からして未熟だったんですが)、当時の医師会長武見太郎の鶴の一声で150近い処方を保険収載したという「既得権」が揺らいでしまいます。どうして新しい中成薬はきちんとエビデンスを提出させて採用審査を受けるのに、現状の漢方エキスは一切エビデンスがないまま保険適応を続けるのかという話に、必ずなります。だから本当なら温病には新しい中成薬を保険審査して使うべきだと分かっているのに、製薬メーカーも国もやろうとしないし、中国のメーカーから見れば日本はやたら審査が厳しい割に市場としたら小さいから、敢えてそんな面倒はしません。東洋医学会が代表する日本の漢方医も、自分たちの小さな既得権を失いたくないから、そう言う話には背を向けます。


    しかしこのままでは、まず今のコロナ患者を漢方では救えません。これは医療の本質に関わる、倫理上の大問題です。しかも、このまま手をこまねいていれば、日本だけが伝統医学の領域で世界に取り残されてしまいます。中国、韓国、日本で、それぞれの国の伝統医学領域に関する英論文が一番少ないのが日本です。


    しかし、日本はそもそも、海外からの有用な情報は何でも取り入れて発展してきた国です。ところがどうして伝統医学の領域では、ごく一部の漢方医と漢方薬メーカーの既得権益にしがみついて、新しい中医学の成果を拒否するのでしょうか。その結果、コロナが伝統医学では治療出来ないという臨床的な問題が発生しているのです。


    欧米の薬なら、一人分数億という薬ですら認可するのですから、中国のエビデンスがしっかりした中成薬は当然適切に審査して、保険適応すべきです。何故そうしないのでしょうか。


    まったく理解に苦しむ話です。

     
  • 投稿日時:2024/08/17

    宗教とか哲学は、往々にして「世直し」の一面があります。哲学が何故この世の本質を知ろうとするのか、宗教が何故この世の成り立ちを知ろうとするのか。その動機の一つは、世直しです。


    いつの時代も、酷いことが多かった。だから「何故世の中はこんな酷いことになってしまっているのか、それはどうしたらよいのか」という問題提起も絶えず行われてきた。哲学とか宗教などの、少なくとも一つの動機はそれです。

     

    しかし宗教の困ったところは、その解決策をしばしば架空の絶対的存在に委ねてしまうことです。神とか如来とか。でも神も如来も、要するに架空なんです。

     

    神なんていません。如来もいません。いや、お前は釈迦牟尼仏も否定するのかと言われるかも知れませんが「問題解決のための絶対的存在」じゃない、と言う点で私は釈迦牟尼も如来と見るべきではないと考えています。

     

    原始仏教経典の行間を読めば、釈迦仏が生前いろいろと四苦八苦したり、あるいは世俗の権力に妥協したり、時にはすり寄ったりしたという事が見えてきます。最大の仏敵とされるデーヴァダッタは、実は仏教原理主義者で、ブッダがあまりに既成社会勢力に妥協するのを怒ったという可能性は、非常に高いのです。要するに「敵対するな」「怒るな」と説いたブッダにちゃんとデーヴァダッタという敵が存在したのですから、ブッダは怒りも敵対心も克服出来ていなかったことが分かります。何しろデーヴァダッタの事件はブッダ在世中、教団全体を巻き込み大きな分裂を起こした、大事件だったのですから。

     

    さて、ちょっと話題を変えて、新しく登場する哲学や宗教、特に宗教ですが、皆判で押したように復古を唱えます。今の世は乱れている。昔の聖賢の時代に戻れ、とやるのです。これはもう、キリスト教だろうが仏教だろうが、皆同じです。

     

    これはですね、そう主張している人の話をよくよく聴けば、彼は新しいやり方を提唱しているのです。今のやり方ではダメだから、新しいやり方でやろうと言っています。しかし、「誰も経験したことがない新しいやり方」なんて言うのは、皆ためらうわけです。だって誰も経験していないのですから、それで本当に上手く行くのか、分かりません。だから、改革を唱える人々は改革ではなく復古を説くわけ。「今のやり方は昔の聖賢のやり方と違う。これこそが古の聖賢のやり方だ」と言います。

     

    都合が良いことに、考古学が自然科学を取り入れて大きく姿を変えるまで、本当の古の有様なんて言うものは、誰も知りませんでした。権威ある古典を読めば、「この時代は素晴らしかった」なんて書いてありますが、そう言うものは大抵その時代の権力者が思いっきり嘘を書いた、あるいは書かせたのです。

     

    中国人だけでなく、江戸時代までの日本の教養人も「周朝が理想の政治だ」と言いましたが、実際に周が支配領域を実効支配出来たのは、100年にも満たない間です。その後はすぐに分裂や亀裂が露わになり、春秋、戦国と、周王朝が存在した期間の大半は内乱の時代でした。そんな王朝を理想化するなんて、馬鹿げています。

     

    漢で一番偉いとされる皇帝は武帝ですが、武帝って見方を変えれば一番暴力的で野蛮な侵略者でした。武帝の侵略は、まさに無節操と言ってもよいものでした。

     

    じゃあ「開元の治」を敷いた唐の玄宗は?後年色呆けして、安史の乱を招きました。権力は長すぎると必ず腐敗するという教訓を残しました。

     

    むしろ、中国史ではあまりパッとしない宋の方が、他の王朝と比較すればよい政治を行いました。宋は軍事力が弱く、当時で言う中国世界の南半分を支配するのがやっとでしたが、文化、経済、福利厚生など様々な面において「まともな政治」をやったと言えます・・・無論、派閥争いが激しすぎた、官僚の腐敗が酷かったなどということは出来ますが。

     

    ともかく、華々しく理想化された時代というのは、だいたい架空なんです。勝手に持ち上げられたか、そもそも歴史が偽造されただけです。むしろ歴史上は目立たない時代の方が、実際には良い統治が行われました。例えば希代の悪帝王、隋の煬帝のお父さん楊堅。疑り深いのが玉に瑕でしたが、300年も続いた内乱時代を治め、科挙を始めて優秀な人材が官僚として出る道を拓き、倹約に努め、荒廃した国土と人々を安堵させました。最後に後継者を間違えたのが残念でしたが。しかし後の哲学者や宗教家の中に、楊堅の政治に戻れといった人は、ほとんどいません。何故なら楊堅の政治は、地味で、パッとしなかったからです。

     

    まあそんなわけで、「復古」というのは本質的には改革なんです。改革と言っても人々が着いてこないから復古というのです。

     

    だから仏教でも、例えば今この時代に歎異抄を持ち出したってダメなんです。歎異抄に書かれた内容を説いたとされる親鸞が生きた時代と現代では、そもそも時代が抱える問題の本質が違うんですから。無論、歎異抄は本当に親鸞の弟子が親鸞の言葉を書き留めたのか、あるいはそれから200年後に蓮如が書いたものなのかって、それ自体分からないんですが。

     

    つまり宗教においては、全ての新興宗教=悪、まがいものではありません。常にその時代時代に応じて、新しい説が生まれ、しかもそれらはいずれも自分が説く内容こそ古の聖賢の言葉だと言います。しかし実は、そう言うものは全てその時代の社会的要請に応えるべく、新しい主張をしているのです。ただ残念なことに、ほとんどの新興宗教は、結局民衆よりその時代の権力に結びつき、擁護して貰うことで生き延びようとします。だから最初は苦しむ民衆の中から生まれても、いつの間にか権力と癒着して変質していく。ほとんどの新興宗教がそういう道をたどるのです。まあ、言っちまえばそれが宗教というものの限界なのでしょうけど。

  • 投稿日時:2024/08/15

    この今日、8月15日という日に、私は改めて思い起こす。

     

    日本軍が「肝試し」だと言って新兵に射殺させた中国人のことを。日本の無差別爆撃によって殺された無数の中国人のことを。「土人」と面と向かって言われて支配された南太平洋諸島の人々のことを。


    私は忘れない。無謀なインパール作戦で、結局開通しなかったタイからミャンマーに通じる鉄道建設にかり出された多くのタイ人労働者がイギリス人捕虜と共に過酷な現地で倒れたことを。


    私は忘れない。日本の支配に抵抗して立ち上がった偉大な三・一運動に参加した朝鮮人民のことを。そして朝鮮半島においては、1910年の併合から1945年まで絶えることなく抗日運動がくり返されたことを。そしてその犠牲者達を。


    無論、私は忘れない。日本のために無数の犠牲者を出し、しかも戦後も米軍という枷を押し付けられている沖縄のことを。


    そしてここには書ききれない、もっともっと多くの日本が犠牲にしたアジアの民のことを、私はこの8月15日に、必ず思い出す。

  • 投稿日時:2024/08/12
    「整体には行ってはいけない」と言うことについてご説明します。


    皆さんが行ってよいのは医療機関(病院、クリニック)、鍼灸院、整骨院です。整体に行ってはいけません。何故なら整体にはいかなる公的資格もないからです。医療機関は医師、鍼灸院は鍼灸師(正確な制度上の名前はあん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師)、整骨院は柔道整復師。皆公的な資格を持っており、それぞれの資格を取るためには国が決めた一定の教育を受け、試験を受けて資格を取ります。そうでなければ、そうした施設で働くことは許されません。ところが整体だけは、一切、何の公的資格も存在しないのに、勝手にやっています。


    整体は日本の医療の謎と言うより、闇です。なぜなら日本ではそもそも医師法第17条で「医師で無いものが医業を為してはならない」と定められており、医業というのは「当該行為を行うに当たり、医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼし、又は危害を及ぼすおそれのある行為(「医行為」)を、反復継続する意思をもって行うことである」と解釈されています。しかし、鍼灸師、柔道整復師、看護師などはそれぞれの資格を規定する法律に基づいて、それぞれ行える行為が規定されています。

    然るに、整体についてはそうした法律が一切ない。今整体院が行っている行為は、上の解釈に当てはめれば、明らかに医業です。それなのに、整体だけは医師の資格がなく、かつその行為を正当化する一切の資格も法律もないのに医業をやっていて、それが罰せられない。これは、非常に闇が深いものだろうと私は推定しています。整体院について警察に届け出ても市役所に指摘しても、一切動こうとしません。完全に素知らぬ顔をします。おそらく警察や地方自治体が手を出せない、何かがあるのです。一切法的制度がないところで事実上異形である厚意を受け、どんな被害に遭ってもいかなる法律もあなたを救済しません。だから整体だけは、決して行かないで下さい。
     
  • 投稿日時:2024/08/11
    先日、採血結果はちゃんと聞きに来てください、その時は再診料をお支払い戴きますと書いたが、実は私は毎朝診療が始まる前に前日の採血結果に目を通し、「あ、これは近日中に来て貰わないとマズい」と判断した人にはその場で本人の携帯に電話をしている。


    以前はそんなことはやってなかった。採血したんだから患者は当然その結果を聞きに来るはずだと思っていた。ところがある日看護リーダーから「採血したまま来院せず、溜まっている採血結果がこんなにある」とその束を見せられ、仰天した。百数十人分。一つ一つめくってみると、大半は「まあこれは良いだろう」だが、何人か「いやこれはマズい」という人がいた。それから、私は必ず前日の採血結果に目を通すことにした。


    おそらく、「何か異常があればクリニックから知らせてくるだろう」と思っている人が相当いるのだろう。そしてこちらは「採血したんだから患者はその結果を聞きに来るはずだ」と思っていた。双方がそれぞれ思い込んでいた結果、本人が聞きに来ないで後日私が結果を見たら仰天、というケースが何人もいたわけだ。


    それで、今は私は昨日の採血結果には必ず目を通しているが、そんなことをする医者は少ないのだから、皆さん検査受けたら必ずその結果を聞きに来て下さい。実は大変なことになっていた、と言うことが実際にあったのですから。

     
  • 投稿日時:2024/08/09
    今日、日本製紙から3人目の心療内科受診があった。さすがに3人目ともなれば捨て置けない。こうして企業名を公開する。


    日本製紙は製紙業では日本第二の大企業だ。世界的にも、製紙会社としては世界第8位だそうだ(Wikipedia)。石巻に拠点を持つ企業の中では唯一の一部上場企業である。ところがそこから、今日で3人、労働問題で心を病んだ患者が来た。


    あんな大企業が、いったい何をやっているんだろうと、先ほど「日本製紙」という会社について調べてみた。そうしたら、日本製紙の直接の前身は十條製紙だが、そのもともとは、渋沢栄一が三井と組んで1873年(明治6年)に設立した「王子製紙株式会社」であったことが分かった。


    それで、合点がいった。そもそもが、官僚から資本家に転出した渋沢栄一が三井財閥と組んで立ち上げた会社だ。つまり職種は違えど、「女工哀史」の舞台と同じような会社であったという事だ。設立当時からして、労働者を虫けらのように搾取するのが当然という体質の会社なのだ。


    渋沢栄一を美化したり理想化する風潮があるが、人間はその発言ではなく、行動を見た方が良い。


    渋沢栄一は、元豪農の生まれだった。農家であったが、豪農だったので苗字帯刀を許された。そして明治維新の時、最初は尊皇攘夷を唱えたが、機を見るに敏で、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の家臣になった。幕臣としてパリ万博に派遣され、ヨーロッパ文明に接した。


    明治2年には今度は明治政府に招かれ、民部省の役人として税制に関わった。その間、彼は富岡製糸場に従兄を初代場長として送り込んでいる。この富岡製糸こそ、あの「女工哀史」のそのままであった。彼は大蔵省で出世したが、あることで権力者と意見が対立し、退官。実業界に身を転じた。三井財閥と組んで様々な銀行や会社の設立に関わった。その渋沢栄一が設立に関わった会社の一つが王子製紙だ。つまり、彼は終生、よく言えば「機を見るに敏」、露骨に言えば「今どこに権力があるかを察知して、上手く一生を泳いだ」人物だ。


    渋沢栄一は今年なんと万札の顔になったが、彼を賞賛するのは危険である。渋沢栄一が高級官僚から実業界に転出して活躍した時代というのは、まさに戦前の日本。労働者などは虫けらのように扱われ、死ねば死んだきり。小林多喜二が描いた「地獄に行くぞ」の時代であった。渋沢栄一という人間は、小林多喜二のペンに掛かれば「地獄絵図」の企業を次々に設立した人間だったのであって、老年になって医療や福祉,教育に関わったからと言って、彼の社会的犯罪は否定出来ない。


    そういう人物がそもそもの会社を設立した、その末が今の日本製紙なのだ。それなら、あれほどの大企業なのにこんなちっぽけな場末のクリニックに三人も労働問題で心を病んだ労働者が来たというのも、合点がいく。三人の状況は、いずれも、一部上場の大企業としては驚くべく酷いものだった。一帯何故これほどの大企業から労働問題で心を病んだ患者が来るのか不思議だったが、今日ついに三人目が来たので日本製紙のそもそもを洗ったら、なるほどあの渋沢栄一が立ち上げた会社が元なら、それはこう言う労働環境だろうと合点がいった次第であった。



     
  • 投稿日時:2024/08/03

    今夜は、50代最後の日の晩餐を相方と一緒に戴きました。明日は彼が手料理を作ってくれるそうです。

     

     

    いつもは「相方事務長」と書いていますが、今日は「相方」と書きます。なぜなら彼と私は19981230日に出会って以来、人生を共にしてきたパートナーだからです。

     

     

    その間、彼には迷惑の掛け通しでした。出会った翌年に今のマンションが完成して、私は彼を仙台に呼んだのですが、当時はまさに冬の時代でしたから、彼は仙台で職に就くことが出来ませんでした。しかも、私は2001年に一回仙台を離れ、東大に漢方の武者修行をしに行きました。その時は、このマンションは一度手放し、東京で2年間アパート住まいをしました。その時も相方は一緒に着いてきてくれましたが、当然東京でも、まともな職には就けなかったのです。あの「冬の時代」の話です。

     

     

    2003年、私自身が引き金を引いて、東北大学医学部になんと漢方の講座が出来ることになり、私たちは予想だにしなかったのですが、仙台に戻ってきました。私は浪人暮らしから突然東北大学准教授になりました。

     

     

    その後も色々とあったのです。話し出すと切りがありません。しかしどんなときも、常に私には彼がいました。彼はあの19981230日の晩以来、一度も私に「別れる」と言ったことがありません。その間、私は何度も浮気をしたのですが。

     

     

    しかし今、明日還暦を迎えるという身になってみれば、浮気相手とは皆疎遠になりました。結局、彼だけが残ったのです。むしろ、彼と知り合う前に付き合っていたタイのチェンとは、今でも友人として関係が続いています。おそらく彼は、明日私におめでとうというラインをくれるでしょう。

     

     

    無論、1998年という時代、私たちが結婚式を挙げるなどということはまったく考えられませんでした。私たちは今年で26年目です。なんでも25年目を銀婚式というのだそうですが、これはおそらく業界の金儲けの種だろうと思います。おそらく私たちがもしお互いに何か式をするというなら、それは葬式になるでしょう。どちらがどちらの葬式をするのかは、分かりませんが。

     

     

    私は職場の同僚や同級生など、たくさんの結婚式に参列し、そのたびに三万円を置いてきましたが(まあ、決まり事ですので)、私と相方は、一度もそういう機会には恵まれませんでした。しかし、いくら盛大な結婚式をやっても、破綻する夫婦はいくらでもいます。私たちは何の式も挙げませんでしたが、26年間人生を共にしております。

     

     

    そうですね・・・。もし出来ることなら、私たち同性カップルにも、少なくともなんらかの法的関係を認めてほしい。まさに星霜を共にしてきたのですから。仏教式に言えば塵労を共にしてきたわけです。私は自分がゲイである事を隠していませんが、相方の名前は明かせません。彼は未だにGay in a closet、沈黙するゲイですから。しかし、私たちのどちらかは、先に死にます。私の方が年が上ですから、可能性としては私が先に死ぬでしょう。その時、私は是非相方に喪主を務めてほしい。それには、社会が私たちのような関係を認めて戴く必要があるのです。今のままでは、いくら私たち二人が人生で分かちがたい関係だとしても、法律や慣習では「単なる同居人」なのです。

     

     

    色々な考えで「そういうことは公に認めるべきではない」という方が多いことは承知しています。しかし少なくとも、私と相方の関係が公的に認められても、皆さん方一人一人には、何の迷惑も掛かりません。これだけはご理解戴きたい。26年間人生の苦労を共にしてきた私と相方がなんらかの公的な、あるいは法的な関係として認められたからと言って、誰にも一切、ご迷惑が掛かるという事はないのです。そうなったところで、太陽はその翌日も東から上がるでしょうし、あなたのお子さんは反抗期であなたに反発するでしょう。老いた親御さんの面倒を見るのが大変なことも、別に私と相方が公的な関係を認められるかどうかで変わるわけではありません。あなたの上司は、その翌日もあなたにガミガミ言うでしょう、それまでとまったく同じように。皆さんにとっては、まったく同じ日常が続くだけです。しかし、私たち性的マイノリティーにとっては、それは非常に大きな福音なのです。

     

     

    もし私たちの関係が公に認められれば、私か相方が病気になって入院したときも、「誰か他のご家族を呼んでください」なんて言われる必要は無くなります。どちらかが死んだときも、ごく自然に片方が喪主になり、遺産を相続出来ます。私の両親はともに70代後半で呆けましたから、私もおそらくその年代で呆けるでしょう。その時、私の身寄りは相方しかいません。しかし私と彼が今のような「法律上はあかの他人」だと、私が呆けたとき、あれもこれも山のように面倒が生じます。

     

     

    私たち性的マイノリティーは、自分でそういう生き方を選択したのではありません。思春期を迎えたら、自分でも訳が分からないまま、そうだったのです。今では性的指向というものは生まれつきであって、ある人々は思春期を迎えると異性に興味を持つが、ある人々は同性に惹かれる、またある人は異性にも同性にも惹かれるという、それだけのことだ、と言うのが世界の医学常識です。だからこそ、多くの国々で性的指向によって人を差別しないと言う方向に向かっています。しかし日本では、なかなかそうなりません。

     

     

    家族制度を持ち出す人がいます。しかし代々続く家族などと言うものは、武家か公家以外は、江戸時代まで存在しませんでした。そもそも苗字を許されたのが武士か公家だけだったのですから。

     

     

    つまり、「古来の伝統」と呼ばれる慣習や制度の大半は、実は割合新しいものです。そう言うものを尊びたい人は、無論尊んで戴いて善いのですが、しかし「日本では古来から代々家系が」と言われて性的マイノリティーの関係を否定されると、いやいやそう言うのって、実はそんなに昔々からあったわけじゃないですよ、と言わざるを得ないのです。むしろ、戦国時代から江戸時代まで、日本社会は同性愛には非常に寛容でした。

     

     

    まあそういう歴史の話はさておいて、少なくとも、私と相方の26年続いている人生を共にする関係を公に認めて戴いても、少なくともどなたにも一切ご迷惑は掛かりません。誰にも迷惑は掛からず、かつ私たち当事者にとっては非常に有益で有り難いのですから、どうぞ私たちのような関係を公に認めてください。

     

     

    あゆみ野クリニックにとっても、我が相方は必要欠くべからざる人間です。そして相方が私の要求する当院にとっては必要だが相方にとっては完全に不慣れな要求を一生懸命こなしてくれるのは、まさに彼が私の相方だからです。そうでなければ、彼はこんな困難な仕事はとっくに辞めていたと思います。しかし彼が辞めたら、あゆみ野クリニックは成り立ちません。私と相方の関係は今まさに、石巻にとってもささやかながら大事な話なのです。あゆみ野クリニックが今後も皆さんのお役に立つためには、私と相方の関係がとても大事なのです。還暦という人生の節目に当たって、私が皆さんに是非お願いしたいことを申し上げました。それでは、今後もあゆみ野クリニックに宜しくご贔屓をお願いいたします。

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