競争することについて

2024/04/12

ある20代女性が当院心療内科に受診されました。出勤しようとすると動悸、眩暈、突然涙が出る・・・典型的な「心因反応」です。その方が抱える問題の本質は仕事のストレスだったのですが、あることをきっかけにして一気に体調を崩してしまったといいます。

 

 

その方は、ピアノを習っているのです。ほんの趣味、というのではなく、小さい頃から本気でやっているそうです。それで、とある有名な全国大会に今年で3年連続出場した。ところが今年、同じピアノ教室から初めて全国大会出場した2人が入賞したのに、その方は入賞できなかったというのです。どうもそれがきっかけに、長年溜まったストレスが一気に出てしまったのではないか、とご本人がいうわけ。

 

 

なるほど、と私はいいました。あなたはまだ20代です。無論、そういう年頃では他人と競争します。私だって若い頃、大学で医学研究者だった頃は一生懸命競争しました。あいつの研究は論文になったのに俺の研究はなかなか進まない、あっちはものすごくハイレベルのジャーナルに論文が載ったのに俺の論文はレベルの低いジャーナルにしか載らなかった。色々悔しい思いをしました。しかし、本当に競争する相手は他人じゃないです、ご自分と競争しなさい。来年の全国大会の時は、今年のあなたより高みを目指すんです。

 

 

患者さんは頷きましたが、まだ納得したような顔ではありません。そこで私は話を続けました。

 

 

ピアノをおやりになるのですから、リヒテルとギレリスはご存知ですね?

 

 

彼女は頷きました。

 

 

あの2人はほとんど同世代です。しかも同門でした。2人ともものすごい天才ピアニスト。しかしギレリスにとっては、どんなに努力してもどうしてもリヒテルに敵わないというのが終生負目だったそうです。

 

その方はどうやらそのことをご存知だったようです。私は話を続けました。

 

 

昔、リヒテルを生で聴いたことがあります。その頃もう彼はあまり大作は弾かなくなっていました。確かリストの小品だったと思うけど、曲ががどんどん高音に向かって行く部分がありましてね、パパポパパパーンと一気に駆け上がって行くんだが、その時一瞬私は音がどこまでもどこまで高く登って行くような幻想に囚われたんだ。無限の高みに昇って行くようだった。リヒテルは本当に凄かった。

 

 

若い方ですから、リヒテルを生で聴いたことはなかったようですが、さすがピアニスト、私の話を真剣に聞き始めました。

 

ある時、リヒテルは「私は嫉妬という感情がわからない」と言ったそうだ。もしそれをギレリスが聞いたら、さぞ地団駄踏んで悔しがっただろう。

 

 

しかし、ギレリスの晩年、と言ってもあの人はそんなに長生きしたわけじゃないんだが、ともかく彼の晩年、ベートーヴェンの後期のピアノソナタを何曲か録音している。30番、31番あたりのね。それはもう、本当に素晴らしいものだ。確かリヒテルも30番を録音しているはずだが(若干うろ覚えで話した)、あれは明らかにギレリスの方が優っている。無論、技術を比べているんじゃないですよ、音楽としてね、ギレリスの演奏はついにリヒテルに優った。

 

 

想像だが、おそらくその頃になってギレリスはついにリヒテルに張り合うのをやめたんだと思う。ひたすら自分のベートーヴェンを弾いたんだ。おそらく彼は自分の体が弱っているのはわかっていたと思う。そういう中で、きっと彼は自分とベートーヴェンの楽譜だけに向き合ったんだろうね。もはや彼の中には自分とリヒテル、という感覚は消え失せたんだと思う。あの音源が今手に入るかどうかわからないが、ぜひ探して聴いてご覧なさい。そりゃあ素晴らしいものだ。

 

 

彼女は今度こそ深く頷いて帰って行きました。

 

 

 

 

 


PAGE TOP