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新興宗教とは何か
2024/08/17
宗教とか哲学は、往々にして「世直し」の一面があります。哲学が何故この世の本質を知ろうとするのか、宗教が何故この世の成り立ちを知ろうとするのか。その動機の一つは、世直しです。
いつの時代も、酷いことが多かった。だから「何故世の中はこんな酷いことになってしまっているのか、それはどうしたらよいのか」という問題提起も絶えず行われてきた。哲学とか宗教などの、少なくとも一つの動機はそれです。
しかし宗教の困ったところは、その解決策をしばしば架空の絶対的存在に委ねてしまうことです。神とか如来とか。でも神も如来も、要するに架空なんです。
神なんていません。如来もいません。いや、お前は釈迦牟尼仏も否定するのかと言われるかも知れませんが「問題解決のための絶対的存在」じゃない、と言う点で私は釈迦牟尼も如来と見るべきではないと考えています。
原始仏教経典の行間を読めば、釈迦仏が生前いろいろと四苦八苦したり、あるいは世俗の権力に妥協したり、時にはすり寄ったりしたという事が見えてきます。最大の仏敵とされるデーヴァダッタは、実は仏教原理主義者で、ブッダがあまりに既成社会勢力に妥協するのを怒ったという可能性は、非常に高いのです。要するに「敵対するな」「怒るな」と説いたブッダにちゃんとデーヴァダッタという敵が存在したのですから、ブッダは怒りも敵対心も克服出来ていなかったことが分かります。何しろデーヴァダッタの事件はブッダ在世中、教団全体を巻き込み大きな分裂を起こした、大事件だったのですから。
さて、ちょっと話題を変えて、新しく登場する哲学や宗教、特に宗教ですが、皆判で押したように復古を唱えます。今の世は乱れている。昔の聖賢の時代に戻れ、とやるのです。これはもう、キリスト教だろうが仏教だろうが、皆同じです。
これはですね、そう主張している人の話をよくよく聴けば、彼は新しいやり方を提唱しているのです。今のやり方ではダメだから、新しいやり方でやろうと言っています。しかし、「誰も経験したことがない新しいやり方」なんて言うのは、皆ためらうわけです。だって誰も経験していないのですから、それで本当に上手く行くのか、分かりません。だから、改革を唱える人々は改革ではなく復古を説くわけ。「今のやり方は昔の聖賢のやり方と違う。これこそが古の聖賢のやり方だ」と言います。
都合が良いことに、考古学が自然科学を取り入れて大きく姿を変えるまで、本当の古の有様なんて言うものは、誰も知りませんでした。権威ある古典を読めば、「この時代は素晴らしかった」なんて書いてありますが、そう言うものは大抵その時代の権力者が思いっきり嘘を書いた、あるいは書かせたのです。
中国人だけでなく、江戸時代までの日本の教養人も「周朝が理想の政治だ」と言いましたが、実際に周が支配領域を実効支配出来たのは、100年にも満たない間です。その後はすぐに分裂や亀裂が露わになり、春秋、戦国と、周王朝が存在した期間の大半は内乱の時代でした。そんな王朝を理想化するなんて、馬鹿げています。
漢で一番偉いとされる皇帝は武帝ですが、武帝って見方を変えれば一番暴力的で野蛮な侵略者でした。武帝の侵略は、まさに無節操と言ってもよいものでした。
じゃあ「開元の治」を敷いた唐の玄宗は?後年色呆けして、安史の乱を招きました。権力は長すぎると必ず腐敗するという教訓を残しました。
むしろ、中国史ではあまりパッとしない宋の方が、他の王朝と比較すればよい政治を行いました。宋は軍事力が弱く、当時で言う中国世界の南半分を支配するのがやっとでしたが、文化、経済、福利厚生など様々な面において「まともな政治」をやったと言えます・・・無論、派閥争いが激しすぎた、官僚の腐敗が酷かったなどということは出来ますが。
ともかく、華々しく理想化された時代というのは、だいたい架空なんです。勝手に持ち上げられたか、そもそも歴史が偽造されただけです。むしろ歴史上は目立たない時代の方が、実際には良い統治が行われました。例えば希代の悪帝王、隋の煬帝のお父さん楊堅。疑り深いのが玉に瑕でしたが、300年も続いた内乱時代を治め、科挙を始めて優秀な人材が官僚として出る道を拓き、倹約に努め、荒廃した国土と人々を安堵させました。最後に後継者を間違えたのが残念でしたが。しかし後の哲学者や宗教家の中に、楊堅の政治に戻れといった人は、ほとんどいません。何故なら楊堅の政治は、地味で、パッとしなかったからです。
まあそんなわけで、「復古」というのは本質的には改革なんです。改革と言っても人々が着いてこないから復古というのです。
だから仏教でも、例えば今この時代に歎異抄を持ち出したってダメなんです。歎異抄に書かれた内容を説いたとされる親鸞が生きた時代と現代では、そもそも時代が抱える問題の本質が違うんですから。無論、歎異抄は本当に親鸞の弟子が親鸞の言葉を書き留めたのか、あるいはそれから200年後に蓮如が書いたものなのかって、それ自体分からないんですが。
つまり宗教においては、全ての新興宗教=悪、まがいものではありません。常にその時代時代に応じて、新しい説が生まれ、しかもそれらはいずれも自分が説く内容こそ古の聖賢の言葉だと言います。しかし実は、そう言うものは全てその時代の社会的要請に応えるべく、新しい主張をしているのです。ただ残念なことに、ほとんどの新興宗教は、結局民衆よりその時代の権力に結びつき、擁護して貰うことで生き延びようとします。だから最初は苦しむ民衆の中から生まれても、いつの間にか権力と癒着して変質していく。ほとんどの新興宗教がそういう道をたどるのです。まあ、言っちまえばそれが宗教というものの限界なのでしょうけど。