相談料を貰うべきだった人

2024/08/31

「通院精神指導をした人は誰だったか」


昨日、20代半ばの女性が心療内科を初診しました。その人の話を聞いているうちに、私は「そうか、この人の相手は、私より事務長がいい」と思いついたのです。それで、窓口にいた事務長に「おーい、ちょっと来てくれ」と呼びました。



事務長というのは、事務長です。事務屋であって、患者の相手をする役目ではありません。しかし私はその患者さんの話を聞いているうちに、この人の相手は事務長がぴったりだ、と直感したのです。


その人は大卒で、最初勤めたところが無茶苦茶なところだったためお決まりの鬱を発症してしまいました。マジでしっちゃかめっちゃかな会社だったようです。しばらく休職して病が癒えた後、とある会社に再就職しました。今度はしっちゃかめっちゃかではありません。大卒の人が勤めるのにふさわしい大手です。


しかしその人はその間数年ブランクがあったため、事実上新卒なのです。これまで全く自分が知らない業界に入って、0から仕事をスタートした。周りの人たちは親切で、「分からないことがあったら何でも訊いて」と言ってくれるのですが、どうもその人、最初の会社のトラウマが残っていたようで、次第に自分があれも出来ない、これも出来ないと自分を責め始め、遂に「廻りは如何にも親切そうに言ってくれるけれども、本音では自分を蔑んでいるんじゃないか、こんなことも分からないのかと思っているんじゃないか」という鬱の連鎖に陥ってしまったというのです。


そこまで聞いて、あ、この話は事務長だ、と直感したのです。


当院事務長は、もうご存じの方もいるでしょうが、私の相方、つまり人生のパートナーです。私が勤務医として高給を貰っていた間、彼は一度も医療に関わったことはありません。しかし去年3月、私が突然あゆみ野クリニックの経営をやらなければならなくなったとき、経理を始めとする諸般の事務をやってくれる人を雇う金がありませんでした。窓口の人と、クリニックの経理その他をやる人は違います。経理は、どうしたって本当に信用出来る人間にしかやらせられません。でもそういう人は、かなり高給を出さなければお願い出来ないわけです。無論私自身複雑な保険請求の仕組みは分かっていませんでしたからコンサルタントをお願いし、また会計や税務は会計士、税理士にお願いしましたが、会計士に日々のお金の出し入れから全部やって下さいとなれば、それはものすごい料金になってしまいます。どうしても、日々の金の出し入れは自前でやり、領収書等々必要な書類は整理して、その結果を会計士に出して会計士が収支の一覧表を作り、「今月も売り上げが足りません」とやるわけです。ところが、そういう日々の金の出入りをやりつつよろず雑務をやってくれる人を頼むお金がない。そこまで自分でやるとなれば、私が潰れてしまう。それで私は、相方にやって貰うことにしたのです。


しかし彼はこれまで、医療という分野には一度も関わったことがありません。最初に彼が訊いてきたのが、1点って何?でした。これには、私が愕然としました。私は医者ですから、保険医療の込み入った計算は分かりません。しかし医療の世界では、1点は10円のことだ、と言うのは常識として知っていました。皆さん医療機関や薬局から貰う領収書や明細書を見てください。すると、金額で書いてある部分と点数で書いてある部分があります。1点というのは10円のことです。これは、医療、福祉、介護業界では1+1=2と同じぐらいの常識なのです。だから、相方事務長に「1点って、何?」と訊かれたとき、私が呆然と立ちすくんだその理由が、逆に彼には分からなかったという話を、後で本人から聞かされました。要するに、赤信号と青信号の違いを知らない人を運転手にしたと同じだったのです。


相方事務長は去年の7月から当院の専属事務長になりました。丁度1年と1か月が過ぎたわけです。その間、なんど家に帰ると私が彼に怒鳴り、頭ごなしに否定し、わめき散らしたことか。


何しろ、他の従業員には一切私は自分の本当の感情はさらけ出せないわけです。最初の3か月なんか、まさに毎日胃がキリキリ痛んで、私は比喩とか例えではなく本当に、ものが喉を通りませんでした。3か月で20キロ痩せました。銀行の口座の残高は音を立てて消えていきますが、患者は増えない。当然、収入もない。しかし出るものはどんどん出ていく。


人生で、一番真剣に自殺を考えた3ヶ月間でした。


そういう時、家でもクリニックでも私に付き合わされたのが相方事務長と言うわけです。しかも彼は、1点が10円だという事すら知らなかった。


まあこういうケースというのは、普通はどちらか、あるいは両方が潰れて終わるんです。最初からめちゃくちゃだったんだもの。


私が一番「もうこれは無理だ」と思ったのは、二人で疲れ果てて仙台の家に戻ったとき、彼が「今夜はこれだよ」と言って出したトウモロコシ一本を見たときでした。一人一本じゃないのです。二人で一本。相方は心底疲れ果てており、冷蔵庫に置いてあったトウモロコシ一本をチンして出すのがやっとだったのです。お腹空いてるならカップラーメンあるから、と言われましたが、私もそのカップラーメンを喰う気力すらありませんでした。


しかし最近私は、どうも今、私が知らないところで相方事務長がクリニックを動かし始めたことに気がつきました。大抵のことは、彼と看護リーダーが相談して動かしており、「これは」ということだけ私の判断を仰ぐようになっているようです。


それで、「鬱から立ち直って全く知らない業界に入ったら右も左も分からなくて混乱してしまった」というその患者さんに、私は相方事務長を呼び、彼に患者さんの話を聞かせました。そうしたら、彼は驚くべきことを言い出しました。


うん、私も、急にここの事務長をやれと言われて、何にも分かりませんでした。何もかも分からず、とても困ったのです。


まさに私が毎日彼を罵詈罵倒していた頃の彼の気持ちを語り始めたのです。


それで、どうしようかと悩んだあげく、ノートを付けることにしたんです、と彼が言うのです。


たしかにこれまで、私は二人して疲れ果てて仙台の自宅に戻ってくると、彼が寝る前にいつもノートに何かを書いていることに気がついていました。時々「お前、何を書いているんだい?」と訊きましたが、彼は答えません。まあ、日記みたいなものだろうかと、私もいつしか尋ねなくなりました。ところが昨日、その患者さんを前に彼はこう言ったのです。


毎日ノートに、「今日自分が出来たこと」を書くようにしたんです、と。


出来ないこと、失敗したことを挙げだしたらきりが無いから、今日初めて自分が出来たことを、どんなに些細なことでも、ノートに書くようにしたんです、と言うのです。


私は脇でそれを聞いていて、初めて「そうか、そうだったのか」と心底なんとも言えない気持ちがこみ上げてきました。毎日毎日家に帰ると私が彼を罵詈罵倒していた頃から、彼は毎日黙って「その日初めてやれたこと」を書いていたのです。


これには、その患者さんも驚愕したようです。それまでうつむいて、相手の目をそらしていた彼女が初めて相方の顔を真っ直ぐに見て、話に聞き入りました。相方は淡々と話し続けます。


自分は医療なんか何にも知らなかったから、毎日失敗だらけだったんです。毎日毎日、訳が分かりませんでした。でもそればかり考えていたら、潰れてしまいます。私はこれまで随分いろんな仕事をしてきたので、「自分が仕事について何も分からないときはどうしたら良いか」は知ってたんです。それで、私は毎日仕事が終わると、その日自分が何を初めて出来たかを書いて、一ヶ月ぐらい毎にそれを見返したんです。仕事を始めて一年ぐらいは、誰だって何も分かりませんよ。ええ、私は随分色々な仕事をやりましたが、最初の一年ってのは、誰も何も分からないです。だから最初の一年は,何も分からないのが当たり前ですから、それを気にしない方が良いですよ。


もしこれが私の言葉だったら、その患者さんにこれほどまでには突き刺さらなかっただろうと思います。彼が語ったことは平凡ですが、まさに彼の人生の苦労が語った言葉でした。だからこそ、その言葉は真っ正面から患者さんの心に達したのです。


結局その患者さんは、かなり表情が明るくなり、何もお薬は出しませんでした。またいらっしゃい、と言って帰しました。相談料、正式には「通院精神指導料初診6千円」は今回は私ではなく、相方事務長が貰うべき料金だったようです。


 

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