石巻あゆみ野駅前にあるあゆみ野クリニックでは漢方内科・高齢者医療・心療内科・一般内科診療を行っております。*現在訪問診療の新規受付はしておりません。
悟りと診療
2024/11/09
私は今日、悟りに達した。実は私は頻繁に悟りに達している。
なんて言ったら、お前は馬鹿かと人は言うだろうが、それはこう言うことだ。
私は一週間ほど前から、右下の奥歯、大臼歯の痛みでもだえ苦しんでいる。木曜日に歯医者に行ったら、大臼歯の歯根部に感染が起き、炎症が起きているという診断だった。激痛なのだ。それで歯医者でかぶせ物を外し、歯根部の神経が通っている管をぐいっと広げてそこに生じている感染部位をやっつけ、消毒剤を入れて仮蓋をしている。しかし今日、また私の大臼歯は相当に痛み出した。それで歯医者に頼んで明日また(日曜日にもかかわらず)再受診する。
ところが、その私の歯の激痛は、私が心から診療に没頭している間は、何故か消えてしまう。目の前の、人生を背負ってやってくる患者に正面から相対しているときは、どういうわけか歯が痛まない。しかし外来が終わった途端、再び私は歯痛で悶絶する。
つまり、外来で患者に相対していて、その患者のことだけを考えているときは、歯の激痛をも含め、他の一切は忘れているのだ。いや、忘れているという表現は適切ではない。私は外来中も、いや、さっきまで俺は奥歯が痛かったときがつく。ちゃんと意識はあり、正常なのだが、私の意識はともかく患者に集中しているので、そんな歯根部に感染が起き、炎症になって激痛を生じているという事すら、消えるのだ。それは、例えば麻酔薬を打って眠っているからその間は痛みを感じないという状態とは違う。私は間違いなく完全に覚醒しており、私の大臼歯にそういう病変があり、それがついさっきまで激痛を起こしていた、と言うことを分かっている。だから自分では「今私は奥歯に激痛があるはずだ」と思うのだが、しかし患者の診療に集中している間はいくら激痛があるはずだと考えても激痛を感じない。しかし診療が終わった途端、激痛が再発する。朝ロキソニンを飲んだがロキソニン程度ではこの傷みは全く改善しない。
これは不思議なことだ。私は完全に覚醒しており、眠っていたり意識レベルが下がっているわけではない。そして外来診療が始まる直前まで、私は歯に激痛を感じていた。ところが、外来診療中は、「私の歯は感染による炎症が起きていて、それは木曜日の治療では完治しておらず、ついさっきまで激痛だったんだから今も激痛を感じるはずだ」といくら考えても激痛が起きない。ところが診療が終わった途端、激痛が蘇るのだ。
これは一過性ではあるが、一種の悟りなのだ。つまり、患者の診療にだけ私の意識が集中しているときは、歯根部に感染が起き炎症が起きることによって生じる凄まじい激痛すら、完全に意識があり理解力があるにもかかわらず、感じない。このとき私の意識は完全に患者の診療だけに集中しているから、例え腕を切り落とされても平然としているのだろう。だって歯根部に感染が起きたときの痛みというのは、まさに腕か足が切り落とされたと同じぐらいの激痛だから。
悟りというのはそういうことだ。その一瞬に全ての意識を集中すると、余念が一切消える。余念を思い起こそうとしても、出てこない。意識が低下しているのでもなく、余念を忘れているのでもない。意識は清明で、「さっきまで激痛で、その激痛の原因は今も存在しているのだから自分は今も激痛を感じるはずだ」と分かっていても、診療に集中しているときはどう頑張ってもその激痛が生じない。ところが診療が終わった途端、当然ながらその激痛が蘇る。
悟りの本質はこれだ。一切の意識をあることだけに集中させると、他に対する意識も感覚も消滅する。これは思い込みとかそういうことではなく、実際にそうなるのだ。それをずっと継続出来れば私もブッダになれるのだろうが、残念ながら私がそういう境地になるのは患者の診療に集中している間だけである。一過性の悟り?知らんがな。