石巻あゆみ野駅前にあるあゆみ野クリニックでは漢方内科・高齢者医療・心療内科・一般内科診療を行っております。*現在訪問診療の新規受付はしておりません。
Z世代へ
2025/02/02
N先生。先生ぐらいの年代の人々が、いわゆるZ世代というのか、氷河期世代を超えてもう一度前に踏み出そうとするのを覧ると少し気持ちが明るくなる。
氷河期世代の人たちは本当に気の毒で、あそこまで過酷な時代状況では、彼らは生き延びるだけで必死だったのだから、それ以上あーだこーだ言えない。 日本人の未来はあなた方にある。
ただZ世代で活躍している人を見て感じるのが、「背骨がない」という事なんだ。無脊椎動物だから、くねくねと如何様(いかよう)にでも自分を変形させて状況に対応出来るという見方も出来るが、しかしZ世代で活躍している人々の、あるいはどうにか這い上がろうとしている人々の発言を覧ていると、背骨がない。
例えば先生にこないだ司馬遷の史記の一部を紹介したが、おそらく先生は史記もへーロドトースのイストリエも読んではいないだろう。古代仏教経典も読んでないだろう。トルストイなど所謂「古典」と言われる作家の長編も読んでいないと思う。孫子も老子も孔子も読んでないだろう。マルクスの資本論も読んだことはないだろう。 そんなものは今更なにも関係ないとあなた方は感じるのだろうが、私の診療を覧て先生はちょっと驚いたようだった。その驚きの一部は、実は私は若い頃からそうした知識・知恵に触れてきたと言うことに由来する部分はある。つまり、目の前のことにすぐ役立つことではなく、「人類の叡知」の一部は吸収してきたし、それをその後自分なりに自分の人生や臨床で咀嚼しながら噛みしめている、と言うことだ。 そういう本は、私は小学生や中学生時代によく読んだ。高校時代は古代仏教に入れ込んだ・・・部活のオーケストラにも入れ込んだけど。
史記を書いた司馬遷、イストリエを書いたへーロドトース、古代仏教を開いたブッダ。みんな紀元前の人だ。紀元前の昔の人だからえらいのではなく、その時代その人が言ったことが後世にまできちんと残っているから凄いんだ。二千年以上の時の裁きに耐えて残っている、ということだ。
例えば、江戸時代の漢方医に吉益東洞(よしますとうどう)という人がいる。彼は「腹診は扁鵲(へんじゃく)に始まる」と言った。でも扁鵲列伝は史記にちゃんと残されていて、扁鵲は脈診に優れていたとあり、腹診のことなんか史記の列伝にはなにも書かれていない。と言うことを知っていれば、吉益さん、あんた嘘ついたでしょ、と分かってしまうわけだ。吉益東洞は日本の漢方医の中ではまるで神聖視されているが、少なくとも「腹診は扁鵲に始まる」と彼が嘘をついたことは史記を読んでいればすぐに分かることで、一事が万事と考えて吉益東洞の言行を検証し始めると「こいつあれもこれも嘘言ってる」と分かってくる。
と言うように、本物の古典というのはその後の時代や現代の「創られた権威」を見抜くのに役立つ。これが私の言う「背骨」なんだ。こう言うのって、先生の年よりさらに若い内に身につけるべきなんだが、しかし「思い立ったら吉日」だから、いつだって、例えば私にこんなふうに言われたという事がきっかけでも良いから、ちょっと触れてみると良いかもしれないよ。