石巻あゆみ野駅前にあるあゆみ野クリニックでは漢方内科・高齢者医療・心療内科・一般内科診療を行っております。*現在訪問診療の新規受付はしておりません。
公的医療介護の真実
2025/04/05
医療の現場でごく当たり前に使われてきた薬があれもこれも手に入らなくなって、もう四,五年にもなる。最初はコロナ禍で咳止めのアストミンが手に入らないという事から始まった。その頃は、コロナで咳止めの需要が急に高まったので咳止めの生産が追いつかないのだと言われた。
ところがこの「いつもの薬が手に入らない」という事態はどんどん拡大し、抗生物質が手に入らない、狭心症の予防薬が手に入らないなどなど、人命に関わる薬が次々に入荷しなくなった。
これはもう四,五年前から始まって、どんどん状況は悪化の一途をたどっているのだが、国は手をこまねいて一切なにもせず、大手マスコミも決してこの問題を取り上げない。明らかに、意図的に無視してきた。
何故日常臨床で欠かせない薬が次々に流通しなくなったのか。それは保険診療に於ける薬価、つまり国が決める薬の値段が安すぎるからだ。
最初に市場から姿を消した咳止めであるアストミン一錠の公定価格は7円だ。今時7円で買えるものはない。次に手に入らなくなった代表的なペニシリン、サワシリン(アンピシリン)の公定価格は10.1円だ。10.1円ではあめ玉一個だって買えない。あめ玉が買えなくても人は死なないが、肺炎の人にペニシリンを使えなければその人は死ぬ。ところがその値段が10.1円だというのだ。
これは明らかに国による意図的な価格誘導だ。つまり、こう言う古い薬、ジェネリックでも作れる薬は公的保険から外す地ならしだ。肺炎になって医療機関からペニシリンを処方されてもペニシリンが手に入らないという状況をわざと作り出し、「だからペニシリンは保険から外します。自費で買ってください」という方向に持っていこうというわけだ。
その国の意図がよく分かっているからこそ、「何故こうして基本的な薬が次々に保険医療から姿を消すのか」大手マスコミは沈黙している。なぜならその本当の理由をテレビで特集したら国が反感を買うのは当然だからだ。
大手マスコミと言うものは国と完全に癒着しているから、国の政策を邪魔するようなことは出来ない。だから「次から次に必要な薬が保険医療から姿を消す」真の理由は報道しない。やがてそう言うものが国の思惑通り保険から外れるのをマスコミは邪魔できないのだ。
高齢者医療福祉は、さらに酷いことになっている。
昨年6月、我が国では「診療報酬大改訂」が実施された。そのこと自体、大手マスコミでは殆ど報道されなかったが、その中で一番目だったのが、「在宅外し」だった。
これまでこの国は、要介護高齢者は「病院から施設へ、施設から在宅へ」という方針で動いてきた。だから訪問診療など在宅部門には不自然なほど高い診療報酬、つまり公定価格を設定していた。それを去年の大改訂ではバッサリと切った。
去年の診療報酬大改訂で、訪問診療の基本点数は888点になった。医療の世界では1点とは10円のことだから、一人訪問診療すると8880円だという事だ。しかし訪問診療というのは真面目に診療すると、半日8人、1日16人が限界だ。
訪問診療というのは、医師と看護師がセットになって患家を軽自動車で廻って歩くのだ。地方に行けば行くほど患家と患家の距離は遠いから、たとえば石巻の場合、7軒廻ったら半日では終わらない。そうすると、この値段では半日でたったの62000円である。これでは、医師と看護師の半日分の人件費すら出ない。ガソリン代は無論、出ない。
つまり、「訪問診療はやっても絶対に成り立たない金額にした」というのが去年の診療報酬大改訂だ。しかも、一軒に住む夫婦を同時に訪問診療した場合、一人は8880円だがもう一人は2130円だというのだ。
要するにこれは「訪問診療というものはもう公的保険ではカバーしません」という国の意思表示である。
医療や看護、介護のように公的保険、つまり国の意向が直接現場に反映される分野では、国はその分野に於ける国の方針について、一切言葉で社会に伝える必要は無い。何一つ言わなくてよい。単に診療報酬を上げ下げすればよいのだ。
医師と看護師が一軒行って8880円、その家に夫婦二人がいたら二人診療して11010円だというのでは、半日に七,八軒回るのがやっとな訪問診療は成立しない。つまり、成立しないような診療報酬を設定することによって、国は「訪問在宅という政策は公的保険ではもうやりません」という意思表示を明確に打ち出すことが出来る・・・無言で。
一方施設介護の代表である老人ホーム、正式には特別養護老人ホームの基本点数は、通常対象となる要介護3の人でおおよそ1日当たり20単位、つまり200円引き上げられた。
おそらく国としてはこれで「在宅から施設へ」という国の方針を明確にしたつもりだったのだろうが、その後我が国を襲った超インフレで、この目算は狂った。つまり、価格が引き下げられた在宅からは訪問診療所も訪問介護も一斉に手を引いたが、一方潤うはずだった施設介護もこのインフレ下で1日200円の引き上げでは実質マイナスになり、こちらも撤退、倒産が相次いだ。
結局現状は、高齢者介護の行き場は何所にもない、と言う事態になっている。国としては在宅を下げて施設を上げたつもりが、凄まじいインフレによって「1日200円」などと言う引き上げは無意味になったので、要するに今、何所も高齢者医療・介護をやれる場所は公的医療・介護保険ではなくなってしまった。
もっとも、これが国の計算違いだったかどうかは疑わしい。むしろ国はこうなったことを「もっけの幸い」と見ているかもしれない。つまり本音では、国は高齢者を公的サービスから切りたかったのだ。在宅だろうが施設だろうが、高齢者の医療や介護はもう国は面倒を見たくなかった。しかしいくら何でもそれでは批判を浴びるから、「在宅から施設へ」という流れを作ったが、そう言うシステム設計段階では計算外だったインフレで、在宅も施設も全て割に合わなくなった。割に合わないから、どちらからも業者が撤退した。つまり、高齢者の医療・介護を公的医療保険で引き受けるところはどの領域でも事実上なくなった。
実はこれは、国が本音でやりたかったことだった。本心では、国は高齢者を全ての公的な仕組みから外したかったのだが、さすがにそれはやれなかったから「在宅から施設へ」という流れを作った。ところが予期せぬインフレで施設介護も不可能になったので、結局高齢者は公的補助ではどうやっても介護できないことになった。国がそうすると決めた話ではないから、国はその責任を取らなくてもすむ。責任を取らずに済むのに高齢者を公的保障から切り捨てることが出来る。財産貯金がない高齢者の面倒を国が見なくて済む。
国にとっては実は願ったり叶ったり、うれしい誤算というわけだ。
それははたして、日本の若者や中年世代にとっても本当に望ましいだろうか?短期的には、それであなた方の負担は減るだろう。しかしあなた方だって歳を取るのだ。その時我が国では、あなた方を支える公的仕組みはもはやないのだ。
ところがこの「いつもの薬が手に入らない」という事態はどんどん拡大し、抗生物質が手に入らない、狭心症の予防薬が手に入らないなどなど、人命に関わる薬が次々に入荷しなくなった。
これはもう四,五年前から始まって、どんどん状況は悪化の一途をたどっているのだが、国は手をこまねいて一切なにもせず、大手マスコミも決してこの問題を取り上げない。明らかに、意図的に無視してきた。
何故日常臨床で欠かせない薬が次々に流通しなくなったのか。それは保険診療に於ける薬価、つまり国が決める薬の値段が安すぎるからだ。
最初に市場から姿を消した咳止めであるアストミン一錠の公定価格は7円だ。今時7円で買えるものはない。次に手に入らなくなった代表的なペニシリン、サワシリン(アンピシリン)の公定価格は10.1円だ。10.1円ではあめ玉一個だって買えない。あめ玉が買えなくても人は死なないが、肺炎の人にペニシリンを使えなければその人は死ぬ。ところがその値段が10.1円だというのだ。
これは明らかに国による意図的な価格誘導だ。つまり、こう言う古い薬、ジェネリックでも作れる薬は公的保険から外す地ならしだ。肺炎になって医療機関からペニシリンを処方されてもペニシリンが手に入らないという状況をわざと作り出し、「だからペニシリンは保険から外します。自費で買ってください」という方向に持っていこうというわけだ。
その国の意図がよく分かっているからこそ、「何故こうして基本的な薬が次々に保険医療から姿を消すのか」大手マスコミは沈黙している。なぜならその本当の理由をテレビで特集したら国が反感を買うのは当然だからだ。
大手マスコミと言うものは国と完全に癒着しているから、国の政策を邪魔するようなことは出来ない。だから「次から次に必要な薬が保険医療から姿を消す」真の理由は報道しない。やがてそう言うものが国の思惑通り保険から外れるのをマスコミは邪魔できないのだ。
高齢者医療福祉は、さらに酷いことになっている。
昨年6月、我が国では「診療報酬大改訂」が実施された。そのこと自体、大手マスコミでは殆ど報道されなかったが、その中で一番目だったのが、「在宅外し」だった。
これまでこの国は、要介護高齢者は「病院から施設へ、施設から在宅へ」という方針で動いてきた。だから訪問診療など在宅部門には不自然なほど高い診療報酬、つまり公定価格を設定していた。それを去年の大改訂ではバッサリと切った。
去年の診療報酬大改訂で、訪問診療の基本点数は888点になった。医療の世界では1点とは10円のことだから、一人訪問診療すると8880円だという事だ。しかし訪問診療というのは真面目に診療すると、半日8人、1日16人が限界だ。
訪問診療というのは、医師と看護師がセットになって患家を軽自動車で廻って歩くのだ。地方に行けば行くほど患家と患家の距離は遠いから、たとえば石巻の場合、7軒廻ったら半日では終わらない。そうすると、この値段では半日でたったの62000円である。これでは、医師と看護師の半日分の人件費すら出ない。ガソリン代は無論、出ない。
つまり、「訪問診療はやっても絶対に成り立たない金額にした」というのが去年の診療報酬大改訂だ。しかも、一軒に住む夫婦を同時に訪問診療した場合、一人は8880円だがもう一人は2130円だというのだ。
要するにこれは「訪問診療というものはもう公的保険ではカバーしません」という国の意思表示である。
医療や看護、介護のように公的保険、つまり国の意向が直接現場に反映される分野では、国はその分野に於ける国の方針について、一切言葉で社会に伝える必要は無い。何一つ言わなくてよい。単に診療報酬を上げ下げすればよいのだ。
医師と看護師が一軒行って8880円、その家に夫婦二人がいたら二人診療して11010円だというのでは、半日に七,八軒回るのがやっとな訪問診療は成立しない。つまり、成立しないような診療報酬を設定することによって、国は「訪問在宅という政策は公的保険ではもうやりません」という意思表示を明確に打ち出すことが出来る・・・無言で。
一方施設介護の代表である老人ホーム、正式には特別養護老人ホームの基本点数は、通常対象となる要介護3の人でおおよそ1日当たり20単位、つまり200円引き上げられた。
おそらく国としてはこれで「在宅から施設へ」という国の方針を明確にしたつもりだったのだろうが、その後我が国を襲った超インフレで、この目算は狂った。つまり、価格が引き下げられた在宅からは訪問診療所も訪問介護も一斉に手を引いたが、一方潤うはずだった施設介護もこのインフレ下で1日200円の引き上げでは実質マイナスになり、こちらも撤退、倒産が相次いだ。
結局現状は、高齢者介護の行き場は何所にもない、と言う事態になっている。国としては在宅を下げて施設を上げたつもりが、凄まじいインフレによって「1日200円」などと言う引き上げは無意味になったので、要するに今、何所も高齢者医療・介護をやれる場所は公的医療・介護保険ではなくなってしまった。
もっとも、これが国の計算違いだったかどうかは疑わしい。むしろ国はこうなったことを「もっけの幸い」と見ているかもしれない。つまり本音では、国は高齢者を公的サービスから切りたかったのだ。在宅だろうが施設だろうが、高齢者の医療や介護はもう国は面倒を見たくなかった。しかしいくら何でもそれでは批判を浴びるから、「在宅から施設へ」という流れを作ったが、そう言うシステム設計段階では計算外だったインフレで、在宅も施設も全て割に合わなくなった。割に合わないから、どちらからも業者が撤退した。つまり、高齢者の医療・介護を公的医療保険で引き受けるところはどの領域でも事実上なくなった。
実はこれは、国が本音でやりたかったことだった。本心では、国は高齢者を全ての公的な仕組みから外したかったのだが、さすがにそれはやれなかったから「在宅から施設へ」という流れを作った。ところが予期せぬインフレで施設介護も不可能になったので、結局高齢者は公的補助ではどうやっても介護できないことになった。国がそうすると決めた話ではないから、国はその責任を取らなくてもすむ。責任を取らずに済むのに高齢者を公的保障から切り捨てることが出来る。財産貯金がない高齢者の面倒を国が見なくて済む。
国にとっては実は願ったり叶ったり、うれしい誤算というわけだ。
それははたして、日本の若者や中年世代にとっても本当に望ましいだろうか?短期的には、それであなた方の負担は減るだろう。しかしあなた方だって歳を取るのだ。その時我が国では、あなた方を支える公的仕組みはもはやないのだ。